メビウスの耽溺

 第1章「ロイヤルウェディング」 9話

担当:小豆

 
 握らされた数枚の袖の下は魔法の道具だ。見たものを見なかったことにする記憶改竄(かいざん)の魔法。
それを握らされてしまったのならば仕方ない。ここには何も異常はなかったと、自分は ”魔法によって” 思わされてしまったのだ。
 方便は喉の奥に、魔法の道具は甲冑の下に。けれど、鉛色の甲冑に黄金の輝きは目立ちすぎる。

「随分と良くできた菓子だな、チャールズ」
 静かだが覇気のある声で呼ばれた名に兵士の肩が跳ねる。金属と金属の間にできる摩擦は少ない。弾みで指先から滑り落ちた黄金は石畳の道を車輪のように転がって、やがて、こつり。
高い音を立てて金貨は地面に横たわる。ぶつかった軍用ブーツをなぞるように視線を上げた兵の顔がさっと青ざめるのが兜越しにもわかった。
 赤い魔石が目を惹く膝丈のマント、それに隠されるような一対のサーベル、そしてルーシフ王国騎士団の正装。それだけで、声の主が誰であるかなど考えるまでもなかった。

「リ、リベラトーレ卿!?」
 リベラトーレ・N・ギッティ。今回の遠征にて婚姻式の警備責任者として抜擢された人物であり、チャールズと呼ばれた兵士直属の上司でもある男は、大剣を振るうにはいささか心もとない太さの両腕を組み、呆れたようにため息をついた。
「買い食いならば警邏の後にしろ。その姿で店先に行ったところで、いたずらに国民を怯えさせることになるだけだ」
 指し示された甲冑は、ただでさえ恵まれたチャールズの体格をより一層大きなものに見せている。そうでなくとも、異国の騎士なんてのは一般人にとっては物々しく得体の知れない存在なのだ。

 仕事が終わってからなら好きにすればいい。そういった旨の言葉に、チャールズは手の中に残っていた “菓子” を握り込み愛想笑う。どうにか誤魔化してしまえ。そう囁いたのは手の中にあるものでも魔法の力でもない。他ならぬ彼自身だ。
「い、いやあ、市場の喧嘩に仲裁に入ったところ店主から礼にと渡さ、」


ヒュン、と、言葉尻と風が斬れるのは同時のことであった。

 兜ごと首を落とす直前で寸止められたサーベルの刃先から伝わる殺気が、チャールズの全身の血液を凍りつかせる。震える視線を移し、一瞬のうちに間合いを詰めてきたサーベルの持ち主へと向ければ、真っ直ぐに射殺さんばかりの眼光を伴った緑の目がチャールズを睨めつけていた。

「貴様、自分のしたことがわかっているのか。それでも我がルーシフ王国の騎士に名を連ねる者か! この恥知らずめ!」

 激昂が狭い路地に轟く。雷魔法で感電したかのような痺れを手足の先にまで伝わせる気迫は、騎士団の頂点に立つ者の証だ。

 リベラトーレの頭には幾つもの感情が行き交う。嘘をついた部下への憤り。賄賂を渡した浮浪者の行い。彼をそのような状況にまで追い込んだ情勢への嘆き。数えればきりがないそれらを押さえ込んで、いずこへか消えた浮浪者を追うことよりも部下の矯正を優先させたリベラトーレは憎々しげに歯を食いしばった。

「も…申し訳、ありません……どうか卿、命だけは…!」
「………もういい。それよりも、我らにはヴィリーゼ姫をお探しする任がある」

 会議を放り出して消えたヴェンツェーヌ王国第一王女の捜索と護衛。それが今のリベラトーレが騎士として課された第一の任務であった。騎士の誇りはもはや持ち合わせていない部下に、構っている暇などない。
 サーベルを鞘に収め、マントで再び覆い隠す。「行くぞ。手がかりは容姿の特徴のみだ」踵を返したリベラトーレの後ろを、恐怖が引いたチャールズもまたついていく。

「……腐っている」

 苦々しげに呟かれたリベラトーレの声は、誰の耳にも届くことはなかった。

 

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